勇躍東京に出てきたマリオは大学ではなく、まず予備校に入学する。このあたり、田舎育ちの青年としては、手続きはちゃんと踏むのである。もしかしたら、高校の進学担当の教師が、東京の大学に入る前にはまず予備校に入らなくちゃあいけない、そういうまことしやかな情報を白紙のような大脳にインプットさせたのかもしれない。
ともあれ、この予備校の寮はなぜか千葉県の中山競馬場に歩いていけるほどの距離にあった。その証拠に、週末にはオケラ街道と名付けられた道を歩いて寮に帰ったものである。寮と都内にある予備校との間の駅には映画館もあったし飲み屋街もあった。田舎では見たこともないようなお姉さんたちもたくさん見かけることができた。駅前には午前10時から夜10時まで開いているパチンコ屋だってあった。平日でも一日中お客様でいっぱいだった。勤勉な田舎では見られない光景で、あまりの珍しさに一日中いたこともあった。この時期、そういった思い出がいっぱいある。おそらく人生の中でも、充実した時期だったといえるかもしれない。まさしく、「青春の悶」であった。
次の年、周囲の期待を裏切って大学に入ると、いよいよコンピュータに出会うことになる。いや、すれ違うぐらいだったのかもしれない。
数学の科目の中に「フォートラン(Fortran)」の授業があった。当時、キャンパスには、この「フォートラン」の授業を受けると、ギャンブルに強くなる、そういう噂がまことしやかにささやかれていた。当然、受講した。
声に出して読みたい「フォートラン」。田舎出の青年の耳に、それは心地よく響いた。
IT用語辞典によると…、
>>
1956年にIBM社によって開発された、科学技術計算向けのプログラミング言語
<< とある。そうか、フォートラン君はぼくと同年代の生まれだったんだね。道理で他人とは思えなかったわけだ。うん。うん。いや、肩なんか組まなくったっていいんだけど。 ともかく、田舎育ちのまだ純粋な青年の眼からウロコをぼろぼろ落としてくれたフォートラン君。まず驚かされたのが、次のような式だ。 >>
n=n+1
<<
え? 1を足したnがもとのnと等しいなんて。じゃ、なにかい?左のnと右のnはちがうnなのかい? こんな計算、田舎育ちの純朴な青年には、まったくの計算外だった。
田舎の高校の数学教師だったら、仁王立ちになり、腰に手を当てて呵々大笑。
はっはっはっはぁ。君ね、その両辺からnを引いてごらんよ、うーん? どうだ。0=1 になっちゃうだろ。おかしいよ。この式、間違ってるよ。ってなもんだろう。大都会東京でしか、こんな理不尽がまかり通るわけないんだ。田舎にはいまだって、フォートランなんて、走ってないはずだ。
ともあれ、これがコンピュータとの最初のすれ違いだったといえる。
この時代は、たしかパンチカードなんてやつに、穴を開け電子計算機に読み込ませていた。カード1枚にひとつの命令しか打てないから、当然大量になる。それを大事に持って、大型計算機センターに行って、列の最後尾に並んで、順番待つのだ。うとうととするころになって、ついに自分の番になり、受付の人に渡すという手順を踏んだ。そして、結果を、胸の動悸を押さえながら待っているのだが、たいていは、エラーが見つかり、印刷もされずに、突っ返されてしまい、そこでまたまたパンチカードを打ち直すということになる。だいたいが、パソコンのような画面がないから、印刷する段になるまでミスがわからないのだ。打ち直したカードを抱え、また列の最後に並ぶのである。
まったくもって、のんきな時代だった。研究室に画面付のコンピュータの端末が入ったのは、それからしばらく後のことだったように思う。ペラペラのフロッピーディスクのことが妙に印象に残っている。もちろん、パーソナルコンピュータなるものはなかった。少なくとも、田舎出の純朴な紅顔のマリオの周囲にはそんなモノを持っている友人は一人としていなかった。